うつ伏せの阿吽の呼吸
その日、私は50分コースを予約したはずだった。
終わって時計を見ると、66分経っていた。
どうやら私は、途中から新人研修に参加していたらしい。うつ伏せで。
最初に押してくれたのは、いつもの人だった。
「担当が来るまで、私の方で代わりに押させてもらいますね」
ああ、今日は担当が違うのか。
少し残念だった。
この人は上手い。
何も言わなくても、つらいところを分かってくれる。
棘下筋なのか、肩甲骨の内縁なのか、正確な名前はよく分からない。
ただ、私の中には「そこです、そこなんです」という場所がある。
この人は、そこを何も言わずに押してくれる。
人間、ここまで分かってもらえると、もはや会話はいらない。
筋肉で通じ合っている。
しばらくすると、声をかけられた。
「担当が来たので代わりますね。つらい箇所は引き継ぎます」
うつ伏せなので顔は見えない。
聞こえた声で、男性だということだけは分かった。
「XXです。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
押されて数秒で思った。
あ、この人、新人だ。
顔を見たわけではない。
名札を見たわけでもない。
でも、手から分かる。
指が「ここで合っていますかね?」と言っている。
手のひらが「違っていたらすみません」と謝っている。
圧が弱いというより、覚悟が弱い。
この店では、新人もしっかり研修をしてから配属されると聞いたことがある。
だから何も知らないわけではないのだろう。
ただ、独り立ちしてから、まだ日が浅いのかもしれない。
しばらくすると、さっきの上手い人が戻ってきた。
「脚の方、私も押していいでしょうか?」
もちろんです、と答えた。
うつ伏せのままなので、状況はよく分からない。
ただ、店側も少し気にしているのだろうな、とは思った。
チーフが横にいる。
客もいる。
そりゃ新人も迷う。
新人の指先は、さっきよりさらに遠慮がちになった。
こちらも最初は、単に「もう少し強く押してほしい」と思っていた。
でも、どうもそれではない。
力が足りないのではない。
迷いが多いのだ。
たぶん今、この人に必要なのは「強さ」ではなく「思い切り」なのだと思った。
そう思って、私は言った。
「もう少し、思い切って押してもらえませんか?」
言ってから、自分でも少し驚いた。
強く押してほしい、と言ったつもりではなかった。
痛いから弱めてほしい、という話でもなかった。
場所は大きく外れていない。
やり方もたぶん間違っていない。
ただ、指先が最後の一歩を踏み込めていない。
だから「強く」ではなく、「思い切って」だった。
横にいたチーフにも、その言葉は聞こえていたはずだ。
新人の手が、少し変わった。
まだ迷いはある。
でも、さっきより指が前に出てくる。
言ってみるものだ。
人間も筋肉も、フィードバックが大事である。
最後に、チーフが確認に来た。
「まだ重いところはありますか?」
「肩甲骨の右上の方がつらいです」
チーフはすぐに、そこを押した。
そこです。
まさにそこです。
住所で言えば、番地まで合っている。
「では、担当に引き継いで、少し押して終わりにしますね」
その言い方で、少し察した。
あ、そういうことか。
チーフは、新人にもう一度やらせるつもりなのだ。
さっき私が「思い切って」と言ったからだろう。
この客なら、多少ずれても言ってくれる。
そう判断されたのかもしれない。
再び新人に代わった。
しかし、押している場所が微妙に違う。
近い。
近いけど、そこではない。
「近いんですが、そこじゃないんですよね」
チーフが戻ってきた。
「ここですよね? XX君、ここなんだよ。この部分を押してあげて」
新人が押す。
「ここで合っていますか?」
「近いですが、そこじゃないです」
何度かやり直した。
その間、チーフはつきっきりだった。
「近いです」
「でも、そこじゃないです」
うつ伏せのまま、私は自分の肩甲骨が教材になっていくのを感じていた。
チーフは場所を教える。
私は「そこです」と「違います」を返す。
新人は、その間で必死に指を動かしている。
うつ伏せのまま、私は自分の肩甲骨が教材になっていくのを感じていた。
「お客様、お付き合いしてもらって申し訳ないです」
チーフがそう言った。
私は、いえいえ、と答えた。
その時点で、少なくとも私とチーフのあいだでは、話が通じていた。
終わって時計を見ると、50分のはずが66分経っていた。
だよね。
肩甲骨で研修をすると、時間は伸びる。
退店するとき、新人の方が、少し改まった声で言った。
「次回はちゃんと押せるように頑張らせていただきます。ありがとうございました」
その言い方で、ようやく分かった。
私とチーフだけが、勝手に研修をしていたわけではなかった。
新人も、ちゃんと研修を受けていたのだ。
こちらこそ、と思った。
肩甲骨は、まだ少し重い。
でも、嫌な気はしなかった。
私はただ、もう少しちゃんと押してほしかっただけだった。
それがなぜか、三人で一点を探す時間になった。
施術としては、まだまだだった。
でも、阿吽の呼吸としては、悪くなかった。